死んだ部屋


迂闊であったと、紅霞はこの部屋に入ったことを後悔した。今彼女の上には、短刀を握り締めて荒い息を吐いている兄が馬乗りになっている。
 彼がこのような思い切った行動に出るとは考えなかったのだ。現在は護衛である影貼が宮を外している。その期を利用して、彼の身の回りの者が彼をけしかけたとしか思えなかった。
「阿濃が、この手筈を整えたのですか?」
阿濃というのは、彼の側近達の中でも一等力を持っているものの名である。その名を紅霞が口にした途端、彼の体がびくりとし、いっそうがたがたと震えだした。それで、答えは十分である。
ふうと、紅霞は一つ息を吐いた。倒されたときに打った背はまだ鈍く痛んでいるし、細身であるとはいえ、大の男が腹の上に乗っているので息苦しい。彼の精神状態を考えると、いつ手に持つ短刀が振り下ろされるかわかったものではない。さてどうしたものかと考えを巡らせ始めると、彼が突然口を開いた。
「お、お前が悪いんだ。お前と、あ、あの女が来てから、すべて、変わってしまった」
そう低くはない声で、彼は言葉を探すように話す。紅霞の記憶のうちに、よどみなく話す彼は見当たらないほどに、昔から彼はこのように話した。
「あたくしはこの宮で生まれたはずですが」
「細かいことは、か、関係、ない」
一つ話すごとに、がちがちと歯が鳴る。これではいつ錯乱して妙な所を刺されるとも限らない。あの馬鹿狸と、紅霞は口の中で毒づいた。

「お前が、いたから、母上は、な、亡くなったんだ」

「ち、父上は、お前と、わたしを、比べて、わたしをびょ、病気だと、おっしゃるし」

「わたし、の方が、先に生まれたのに、ち、父上はお前を、世継ぎにした」

ああ、と、紅霞は心中で頭を抱えた。まさかその問題が、この兄の口から語られることになろうとは。
何故だか、この兄妹の父である前帝は、側室が百余人もいたにも関わらず、子を二人しかなさなかった。そして皇太子となったであろう長子は、幼い頃より心を食われていたので、その座は妹に渡ったのであった。今現在、宮中で最も話題に上っている話でもあるだろう。もしこのまま紅霞が帝位につくとあれば、史上初の女帝である。
紅霞は父のことを尊敬していたが、こればかりはなんてことをしてくれたんだと思っていた。あんなに妻がいたにも関わらず、何故父は自分達以外に子を生してくれなかったのか。
「母も母なら、娘、も、むすめだ。こ、今度はあの、男をたぶらかして、何、を、企んでいる!」
「わたしのことも、こ、殺す、気、なんだ!」
「お前の母、も、父上をたぶらかして、わたし、の、母上をおとしめたんだろう!」


 ばいため!





「それは我が母上のことか」

今まで大人しくしていた紅霞から、突然低い声で射られたその言葉に、兄の喉が引きつった音を上げた。彼は紅霞とそれほど記憶に残るほどの会話をした覚えこそなかったが、しかしその声が尋常でないことは知れた。

「母上に毒を持ったのはだれた」
 
「あたくしの背に刃を立てたのは誰だ」

「全て皇后ではないか!貴様の母親だ!」

「あたくしが貴様を恨んでないとでも思ったか!貴様がそのように狂れていなければ!あたく
 しがこのような立場に着くこともなかったのだ!皇后が母上を殺すこともなかった!」

「全ては貴様が
「ちがう!」

「何が違う!」


うわん、と、途切れた声が部屋に響いた。


「あたくしは覚えているぞ」



紅霞の脳裏で、女が短刀を振りかざした。


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