白良がその部屋の戸を開けてまず初めに思ったことは、主の傷の心配よりも、影貼が戻ってきたときいったいどう説明をしようか、ということであった。床で蹲っている皇子はどうだか知らないが、主のその決して大きくはない身体には既に無数の傷跡があるのを彼女は知っている。

「紅霞様!」

瞬く間もなく、主が肩から短剣を引き抜いたのを見て、白良は思わず声をあげた。着物が吸いきれなかった血がはたはたと床に落ちる。早急に医師を呼ばねばと思った途端、今まで無言であった主が口を開いた。

「あたくしを殺して、そしてどうする。あたくしのあとには叔父上がいらっしゃるぞ。あの方も殺
 すのか?」

その声を聞いて、白良は益々頭を抱えた。完全に立腹されている。今更刺されたくらいでは動じない主に、いったい何をしたのだと皇子を見れば、彼は唯々震え、声にならない音をその口から漏らすのみだった。

主がゆらりと皇子に近づいたとき、白良が来たのとは反対の方から、ばたばたと人がやって来た。皇子の傍仕えの者だ。

「いったいこれはどういうことですか!」

彼は白良を押しのけ転がるように部屋に入ると、皇子の傍に寄るなり叫ぶ。怯えた表情だが中々良い度胸だと感心していると、騒ぎを聞きつけて宮仕えの者たちが集まってきたので、そのうちの一人に医師を呼ぶように頼んだ。素直にお手当てをさせていただけるとは思えないが。

「貴様は馬鹿か」

そう言って主がゆるりと上げた左手は、既に真っ赤に染まっている。

「貴様はこれをなんと見る。兄上が咎められることはあろうと、あたくしが咎められることはない
 と思うのだが」

「ですが!」

「そういえば、貴様は阿濃の忠心の者であったな」

びくりと傍仕えの男が揺れたのを見て、白良はようやく合点がいく。皇子派の頭である阿濃が、皇子をうまいこと嗾けたのだ。

「白良、これは何の騒ぎだ」

「犬蓼様。それが…」

いつの間にか傍に執政が来ていた。どこからどう説明して良いのやらと考えていると、その声を聞きつけたらしく、視線はそのままだが初めて主が声をこちらに向けた。

「犬蓼、早急に阿濃を捕らえろ。この男も連れて行け。兄上には自室に戻っていただこう」

「御意に」

犬蓼がそう言うと、集まっていた者達は散り散りに持ち場へ戻っていく。それとは反対に、白良は主の下へ近づいた。

「白良」

そこでようやく、紅霞の視線が兄から外れて白良を捉える。血を流している所為か、その面はいっそう白く、声色も幾分疲れて見えた。

「紅霞様、別室に医師を控えさせております。まずはお怪我のお手当てを」

「よい。このような傷、放っておいても差し支えない」

「なりません」

「白良」

強く言われて、白良はくっと眉を寄せる。

「言いたくはないのですが」

主を動かす、これは“とっておき”だ。

「お手当てをしていただかないと、私が影貼様に怒られてしまいます」

ひくり、と、主の表情が揺れた。

「影貼様のことです。お隠しになっても、すぐにお気づきになられますよ。そうすればいっそ
 う、お小言が増えるでしょうね」

「……わかった」

苦虫を噛んだ様な顔をして主がしぶしぶうなずいたので、白良は苦笑しながら彼女を部屋の外へ促した。そうこうしている間に皇子も連れ出されたようで、室内には既に二人しかいない。二人の影すら出て行った部屋には、唯血の匂いだけ残った。



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終