diary

 
第一章 セミの声が聞こえる。それから、窓から入る風の音も。あぁ、ここで俺は死ぬんだなぁ…。


ふと目を覚ますと、ひどく頭痛がした。ソファから上体だけ起こすと、辺りを見回してやっと夜になっているということに気づいた。(しまった、寝すぎた…)舌打ちだけが独りの部屋に響く。
重い頭を二、三度ふってからのろのろと研究室のほうへ歩いていった。憂鬱だけがのしかかってくる。
(成智(せいち)里(さとる)、23歳。東峰大医学部5年生・・・)
 最近では起きた後必ず自分のプロフィールを頭の中に思い浮かべる。そうしないと、自分が誰なのか忘れてしまいそうだった。
 いったい自分の身に何が起きているのだろう。おかしいと思うようになったのは最近だったが、思い返してみると、もうずっと昔からおかしいような気がする。何がと聞かれても、はっきりとはいえないが、確かに何かがおかしい。狂っている。本当に自分はこの世界に存在する人物なのだろうか。それとも、今目の前に広がる世界は自分が作り出した虚構で、実際には違う世界に本物の世界があるんじゃないだろうか。
 しだいに息が苦しくなってきて、呼吸の仕方を確かめるように大きく息を吸い込んだ。
 「すみません、寝過ごしました」喋っている自分を確認する。
 「すみませんじゃないよ!こっちがいったいどれだけ大変な思いをしてると思ってるの!」
 「ままま、楓さん、成智も謝ってんだしさ」と、怒り狂う責任者・楓美津子を宥めてるのが三年先輩の平塚武。
 「当たり前でしょう!これで謝らないなんてサルかチンパンジーよ!」
「サルは反省ならできますよ」横槍をいれたのが二年先輩の大野浩二。当事者でありながら傍観者にまわり、部屋にいる人たちの顔と名前が一致することに少し安心すると、いつも間にか普通に呼吸ができるようになっていた。やっぱりまともじゃないか。
「先輩、後は僕がやるんで休んでください」現金なもので、安心すると幾分かやる気も出てくる。いつの間にか頭痛も消えていた。
「まったく…、あたしが帰ってくるまでに自分のとこ全部仕上げといてね」鬼のようなことをさらりと言って、部屋を出て行った。
 「まぁ、楓さん、言い方きついけどお前が疲れてることわかってくれてるからあんま気にすんなよ。」
パソコンを向いたまま平塚さんが言った。
 「あ、えぇ。気にしちゃいないんですけど、やっぱ寝坊はまずかったですよね」自分のパソコンの電源を入れながら答えた。
 「ははっ、でも寝れるときに寝とかないとな。それにしても、お前さっきここに入ってきたときすげぇしんどそうな顔してたけど、具合でも悪いのか?」
 「ちょっと頭が痛かっただけです。もう収まりましたから・・・。」
 「そうか、それならいいけど・・・。院内感染とかだったらエラいことになるぞ。その辺の管理は自分でしっかりしとけよ」日ごろから言い聞かされていて、飽き飽きしているセリフも妙に新鮮に聞こえた。適当に返事を返してパソコンの画面を見ながら電子顕微鏡で撮影した様々な細菌の写真が入っているファイルを探しだす。これを論文のしかるべき場所に貼り付けていくことが僕に与えられた仕事だった。簡単な仕事ほど慣れるに従い退屈を生む。もともと、こういう単純作業より、実験とか実習とか、そういうアクティブな仕事のほうが好きだった。けど、そこは下っ端、どう足掻いたって先輩の持つ知識量には遠く及ばない。
 それは重々承知しているのだけれども。
 (退屈だよなぁ…)
 レジュメを見ながら写真に名前を入れていく。こんなの高校生だってできる。バイトを雇おうぜ。かなりの確率でイマドキの高校生のほうが僕よりもコンピュータに詳しいんだからさ。
 心の中でグチグチとこぼしながら指を動かし続けた。


(サトル、サトル、)
遠くで、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。
(思い出せ、忘れていることがある)
 何かを忘れている?
(そう、大切なことを忘れている)
 …お前は?
(わからないか?)
 わかっているなら、聞かないだろ。
(ふん、一理ある)
 誰だよ。
(思い出してみろよ)
 思い出せなかったら?
(思い出せなかったら、思い出すまで待つさ)
 果てしないな。
(そんなことないさ。それに待つのは慣れてるんだ)
 俺が思い出せるという保障がどこにある?
(思い出すさ、だって縁の子だから)
 ユカリ?
(知らないのか?)
 俺が?誰の子だって?
(・・・お前は縁の子だよ)




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