星が落ちる夜


 

小さな手に山葡萄を掴んで、彼は駆けた。

その夜は朔日であったので、辺りは闇に支配されていたが、しかしそれは彼には関係のないことであった。

生い茂る木々を軽やかに避けて、風のように走る。

山葡萄を潰さない様にと気を付けて持っていても、その手は薄く濃く紫に染まった。



彼は仔供ではあったが莫迦ではなかったので、彼の母親と彼に血の繋がりがない事はとうに分かっていた。そして彼が獣の中で特に異質なものであるということにも、薄々勘付いていた。

なぜなら彼の母親はごく普通の狐であったし、彼に近づくのはその母親と植物と、一握りの鳥たちだけで、他は皆彼を遠巻きにして一切近寄ろうとはしなかった。そもそも彼は獣の姿でいるよりも人の姿でいる方が動きやすかったし、毛並みは他の狐にはない灰色で、尾が二房あった。一尾でもなく九尾でもなく、二尾であったのだ。

彼に良くしてくれている鳥達は言った。自分達は空に属するものなので、彼を恐れる必要はあまりないのだと。そしてこうも言った。彼が欲する答えは、近からず遠からず必ず母親の口から聞くことになるだろうと。

それが今夜かもしれないと、彼は思った。

彼の母親は今まさに眠りにつこうとしていた。






森の中でも長寿の木の根元に、彼女は横たわっている。


少しばかり開けたそこに彼が着いた頃には、母親は口の端に泡を溜め、股からは出血をしていた。

それでも息はしていた。

「山葡萄とってきた。食うか」

やせ細り毛並みも色をなくした母親を見て喉が詰まらないでもなかったが、気遣いの言葉を投げかけるのは何かが違う気がして、彼はあえてそう言った。母親からの答えはなく、しかし口がかすかに開いたので、彼は一粒、すでに紫に染まったその指で押しつぶし、彼女の舌に乗せてやった。口端に泡が溜まっているくせに、舌は驚くほど乾いていて、そして彼の手彼女の口に収まってしまうくらい小さい。

「銀次」

それが彼の名であった。掠れた声で、彼女は自分の息子の名を呼んだ。

「何だ」

「選ぶのが随分巧くなったねぇ」

山葡萄の事だろうと、予想はついた。当たり前だ。母親は山葡萄がとみに好きで、それを選ぶときの基準を、彼は嫌と言うほどに聞かされていたのだから。

「銀次」

また、彼女は息子の名を呼んだ。

「お前を、生んだのはねぇ、九尾だよ」

「…そうか」

彼は妙に納得する反面、驚いてもいた。自分を生んだのは普通の狐ではないと思っていたが、九尾とはまた大きく出られたものだ。

「九尾はまれに、灰色二尾の仔供を、産む」

母親の声は小さく、しかし波紋のように広がってゆく。

「それは孤的と呼ばれてね、厄災を齎すと言われる」


「迷信さ」


そうでなくては自分が今まさに天寿を全うできているはずがないと、彼の母親はさらりと言ってのけた。そこまで言って、彼女はふうと一つ大きなため息を吐く。

「あまりにもずたずたになっているのに、息をしていてね。思わずつれて帰ってしまった」

どんどん小さくなる声に、彼は母親の死期が程近い事を悟るが、しかし何を言って老いた母親を送ってやれば良いのか、彼には皆目検討がつかなかった。

「後悔してるか」

「いいや、お前は私の息子だよ」

そう言うと、今まで薄く開いていた目が閉じられた。行ってしまうのだな、と、彼は人事のように思う。

「それならいい」

手に持っていた山葡萄がつぶれた。ふわり、香りが漂う。

「俺はあんたの息子だ」

「そうかい」

それは音になっていなかったが、しかし彼の耳に届いた。母親の胸が大きく膨れ、そして静かに沈んでゆく。


空が白み始めていた。



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